アブー・ハニーファ・モスク
~ 反米武装抵抗勢力とサドル・シティを結んだもの
2006年11月25日
23日、バグダード市北部のシーア派居住地であり、ムクタダー・サドルの地盤であるサドル・シティにおいて、三台の自動車爆弾により200名を越す死者が出た。一件のテロで過去最大の被害者をもたらしたこの事件は、イラクにおける宗派・民族対立を背景としていたように考えられる。14日には、スンニー派が影響力を有する高等教育省において、100名を越す職員が拉致される事件が発生したが、この拉致事件には、政権を構成するサドル勢力の関与が強く疑われた。その数日後にサドル・シティで凄惨な事件が発生したのであった。
サドル・シティの爆弾テロの直後には、バグダード市北部のスンニー派系のアブー・ハニーファ・モスクならびにスンニー派のムスリム法学者協会事務所が迫撃砲による攻撃を受け、スンニー派とシーア派間の暴力と報復の連鎖がさらに継続することを予感させた。
2005年末くらいまでは、イラクにおける不安定の主役はザルカーウィに代表されるようなスンニー派系の外国のテロ組織やサッダーム・シンパであった。徐々に大きくなる宗派・民族間の感情的対立を捉えて、これらの組織は国民に亀裂をもたらすような宗派対立を煽る作戦を志向したとも言われるが、宗派対立による不安定は急速に国内に蔓延した。この結果、10月には、イラク人の死者数はこれまでで最大の3709名に達した。
そもそも、反米武装抵抗活動はいかにして宗派対立に置き換わったのか。両者に何の関連もなかったのであろうか。サドル・シティの一件の後に発生したアブー・ハニーファ・モスクに対する攻撃は、この問いに一定の答えをもたらすものかもしれない。
アブー・ハニーファ・モスクとは、イスラームをかじったことがある者であれば必ず聞いたことがあるハナーフィー法学派の始祖イマーム・アブー・ハニーファを祀る廟の周りに建立されたバグダードでも最も重要なスンニー派のモスクである。アル=アズム・アブー・ハニーファにちなんで名づけられたアーザミーヤに位置するこのモスクは、アラブ諸国から巡礼者を集めてきた。1288年に建立されたモスクはまた、バグダードが侵略されるたびに、人々に避難場所を提供してきた。
2003年のイラク戦争の際、アブー・ハニーファ・モスクは攻撃による被害を受け、バグダード市民の反米感情醸成に寄与した。戦後にもこのモスクは、幾度か米軍による「テロリスト」捜索の対象となり、反米抵抗活動の象徴的存在のひとつとなった。2004年11月には、モースル並びにファッルージャにおける武装勢力の活動に対し、バグダードのこのモスクに焦点が当てられ、米軍による襲撃の対象になった。このモスクにおいてテロ活動が扇動され、反米抵抗活動の拠点となっているとして、モスク内で死者が発生する事件にまで発展したのであった。
この頃から、スンニー派がテロ勢力に活動基盤を提供していることが疑われ、大衆抵抗運動とテロ勢力の区別および分離が重要とされてきた。しかしながら、スンニー派にとって重要なこのモスクに対する攻撃は、スンニー派の感情を揺さぶることに貢献してしまった。テロ勢力とスンニー派は同じではないが、テロ対策にモスクを選んだ代償は大きかったようである。アブー・ハニーファ・モスクは、イラク戦争後、団結と被害者意識という新たな意味を付与されたスンニー派にとって重要な施設になったのであった。
このように見てくれば、今回のサドル・シティにおける爆弾テロの報復対象としてアブー・ハニーファ・モスクが選択された意味が理解できよう。スンニー派の象徴であるこのモスクに対する攻撃は、明確なスンニー派に対する敵意と脅しというメッセージを構成しているのである。また、バアス党員が数多く居住してきたアーザミーヤに位置するこのモスクの前は、イラク戦争中に最後にサッダーム・フセイン元大統領が姿を見せた場所であった。この場所は、シーア派の被害者意識と旧政権に対する敵意を表現すべき場所であったとも言えよう。
現在のイラクの不安定の主役は宗派・民族対立に他ならない。しかしながら、イラク戦争後の武装抵抗勢力と米軍の抗争は、現在の宗派・民族対立にも暗い影を落としている。戦後の記憶が怨嗟と敵対心を煽る効果を持つ中では、宗派・民族対立に利用されかねない暗い記憶を伴う場所や施設がイラクに数多く存在する。今年2月にサーマッラーのシーア派モスクに対する攻撃以来激化した宗派対立は、いまだに沈静化する見通しが立たない。今回の報復の連鎖は、不幸なことにスンニー派並びにシーア派双方の感情をさらに傷つける悪循環を招きかねないように思われてならない。